常に現前する陰陽の輝くような明晰性

 

この世界は常に、自分の本心である「スピリット」、陰陽の測られざる心があり、それは神であったり自己であったりと言われている。
現実とは、そのスピリットのあらゆる現れが生起する場であり、さらにそのスピリットの認識を深めるために自我の座が用意されている。

 

 

 

 

自我は、認識を突き詰めて理解させる機能と共に、分断させ分離させる機能を持つために、普段は、自己を分離されたものとして感じる仮のあり方をしている。しかし現実の現象は、スピリットの乗り物としての自己を自覚させる方向に常に導いている。
易の筮を行い示される卦の陰陽のありようを受け取る時、スピリットとしての自覚が純粋に輝きはじめる。

 

 

私は乾 KENとして、天の心として生起するかもしれない。広大なる世界を先導する意思、その指し示す意思を凝縮した限りない日と月を象徴にして、全ての命の方向を指し示すものとして。

 

私は坤 KONとして、地の心として生起するかもしれない。深く広く広がる豊穣なる母性として、全てがそこに還り受け容れ癒し、そのものの特性を支援し、さらに命を生み出す場の広がりとして。

 

私は震 SHINとして、雷の心として生起するかもしれない。全てを変え古きものを新しくし、動かす稲妻の轟く破壊と革新の力、流動と変動をもたらし物事を変え新たな可能性を開く根源力として。

 

私は巽 SONとして、風の心として生起するかもしれない。静寂の中の静かな森のざわめき、純粋なる空気の流れとして物事の本質に至り、その露わになる真実の相とそのままに共にある英知として。

 

私は坎 KANとして、水の心として生起するかもしれない。激流となり他を押し流し、変わらずに行動を貫き、意思を曲げずに突き通し、あらゆる障害を乗り越える不屈の意思として。

 

私は離 RIとして、火の心として生起するかもしれない。きらめくような明知として万物を理解し、何が真実で何が虚偽かを判断し、さらにそのものの完成を助ける輝ける明晰な知性として。

 

私は艮 GONとして、山の心として生起するかもしれない。留まって思念する大きなまとまりとしての凝縮、単一であり、同一であり、一個であり、ただそれだけである存続性の根源となる不動の同一性として。

 

私は兌 DAとして、沢の心として生起するかもしれない。穏やかな池のような豊かに湛えられる情緒として。すべての存在と喜び、悲しむことを誓い、あらゆるものと憩う、永遠の友の暖かな心として。

 

 

 

この純粋な原初の認識に始まりはなく、終わりはない。入り口もなければ出口もない。

 

ただ陰陽の流れが静かに、また激しく流れ、流れ続けている。遥かに響く滝の音だけが残って、この物語を語る。
透明な夜に、かくも美しい月の光を浴びて歌う滝の音が、一陰一陽の道、かくあれと語る。

 

 

このようにして私は世界を創造する。天を高く、地を低く創造し、天地を根源としたあらゆるものの基盤となる陰陽を創造し、世界を創造したのだ。
(易経 繋辞上伝 第一章第一節)
このように易経は語る。

投稿者プロフィール

松井勇策 Matsui Yusaku
松井勇策 Matsui Yusaku
公認心理師・社労士・組織文化&心理研究者

深層心理学・文化人類学・宗教学などで明らかになる「太古の知恵」を実践的に、経営やキャリア構築に繋げる研究と発信をしています。
変化を増す社会が、人間本来の感性を大切にするものであって欲しい。

「易」の研究を30年以上行っていてライフワークにしています。

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フォレストコンサルティング労務法務デザイン事務所 代表
㈱リクルート 経営管理部リーダーを経て独立、東京都社会保険労務士会役員、産業ソーシャルワーカー協会 所属専門家等。WEBエンジニア・メディアデザイナーでもある。
名古屋大学法学部卒業、武蔵野大学大学院 人間学部にて心理学・宗教学等を研究中